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編集後記。SAC Shopping ライフタイムコミッション好評。R さんのこと。

投稿者 石川洋一 2002年08月15日 08:59

●SAC Shoppingーサックショッピングのライフタイムコミッション好評!

アメリカでは、ライフタイムコミッションを採用していないサイトのアフィリエイトになるなとまで言われているアフィリエイトにとって理想的なコミッション制度。日本では、先週、チャンスメーカーネットでの業界情報でお披露目した、生活アートクラブの運営する「SAC Shoppingーサックショッピング」が、本格的に採用を表明しており、かなりの反響をよんでいるようです。

多くのマーチャントが「リターンデイ」或いは「再訪問までの有効日数」を設けて、自分の紹介したビジターが、その日に買わないでも、有効日数の範囲内で買えばコミッションが発生するようにしていますが、これは、ライフタイムコミッションと言えるものではありません。

最も、サックショッピングのライフタイムコミッションも期間を3年間としているので、これも、本当の意味でのライフタイムコミッションとは、言えないでしよう。サックコミッションでは、始めての試みなので、運営状況を見て、更に期間を延期するなり、本当の意味でのライフタイムコミッションに近づけていく意向のようです。

現状でも、アフィリエイトにとって、有利なことには間違いないので、関心のある方は是非、検討されたら良いでしょう。特に扱い商品が「地球環境を改善する」商品に焦点を絞っており、市場に新紹介の商品が多いところなど、アフィリエイトにとっては、扱いやすい商品と言えると思います。


●コミッションジャンクション、ツーティアプログラムを一部中止

コミッションジャンクションが、ツーティアプログラムを一部うち切りました。一部というのは、7月20日以前に登録したアフィリエイトには、そのまま継続。20日以後にアフィリエイトとして登録したサイトにはツーティアからの収入はないとのこと。理由は何も述べていません。コストをカットする為ではないかとの観測がもっぱらです。


●終戦の日。R さんのこと。

8月15日は57回目の終戦の日。それぞれの思いを秘めている人たちがまだ多くいる。特に外地でその日を迎えた人にとっては、口に出来ない様々の出来事を胸に抑えたまま、この世におさらばをしていく人たちが多いに違いない。

終戦の日を迎えると、知人のRさんを思い出す。知人といっても、自分よりも20歳近くも年上である。Rさんは終戦を迎え南方から引き上げてきた。中国から、ビルマへとわたり、7年近い間戦線を渡り歩いたそうである。よく生きて帰って来たと周囲の人は驚きの顔を隠さないが、本人は殆ど語ることがなかった。

Rさんは、学生の頃、当時の一高を目指し、一二回落ちたらしい。そうこうしているうちに兵隊に取られたのである。一高を目指すくらいだから頭も良いのだろう。戦後は進駐軍相手に英語の通訳をしていた。学生時代、ロシア語も勉強したことがあるとかで、ロシア語の通訳も恐らく片言であろうがこなしていた。

越後の豪農の跡取りとして生まれたが、東京の本郷に銀行を出したのがケチのつけ始めで、本家が大正時代につぶれ、殆どを孤独に生きてきたらしい。分家の世話になりながら勉強を続け、高い志を持っていたようだが、戦争のために一切がうち捨てられ、7年近くを最前線で過ごすことになってしまった。

戦後いろいろの話しが語られ出した。中国では、南京の大虐殺に始まる悲惨な民族圧殺のことごと。ビルまでは、食わず飲まずの死の行進。人肉を食べて生き残ったというような話しも出た。

このような前線で生き残って奇跡の生還をとげたのがRさんだが、戦後、10年以上のつきあいの中で、戦争の話しは殆どでなかった。こちらから、聞けない雰囲気があった。Rさんはいわゆるインテリの弱みをすべて身につけているような人で、知識も豊富で、話しも面白かったが、生きていく上での実践面になると何も出来ない人だった。

最初から何も出来なかったのか、或いは、長い兵隊生活と生死をさまよったことが性格をまったくいっぺんさせてしまったのか? 私には、後者のように思えてならなかった。
生きていく上で殆ど何にも無頓着で、下着も、人が洗ったらと見かねていうまでは何日でもおなじものを着ていた。当然、服装もかざらず、時にはルンペンに見間違うこともあるほどだった。

大学に入って体かっこうが、Rさんと同じようになった私は、自分の衣類をおそるおそる、Rさんに差し出して着て貰ったものだった。

ドストエフスキーが好きで、原文で読んでいるのを見て、尊敬の念を胸に抱いたのを覚えている。日本語でもなかなか読むのが大変な内容である。そんなRさんの下宿している一室に入っていくのが、何か知的な雰囲気に触れる喜びから、よく部屋に行ったものである。

やがて、多くのことがあり、私の近所から遠ざかっていったが、近況だけは極力仕入れて、Rさんの身を、何も出来なかったが気遣っていた。

その、Rさんが、ある日、結婚したという話を聞いた。驚いた。相手の女は私の知っている女性である。しかも、Rさんの親戚に当たる。かなり近いもの同士の結婚なのである。
ちょっと美人タイプであるその女性が、普通ならば、Rさんと結婚するわけがない。裏を知って成る程とおもった。越後の豪農の跡取り息子であったRさんに、どこにあったのか、突然、まとまった遺産相続の話しが舞い降りたのである。その女性の母親が、強引に二人の結婚を取り持ったらしい。

この話しの結末は次の話しでお分かりと思う。私は、仕事の関係で海外に出ることになった。海外でも時たま、Rさんのことを思い出していた。一時帰国で帰ったときに、知り合いを頼って、Rさんの消息をたずねた。浅草の山谷に住み着いているらしいと言う。結婚した女からはすぐに放り出されたらしい。恐らく、手も握ることもなかったのではないか。想像して、私はそれの方がRさんらしいと思った。Rさんが女を抱く図など考えられなかったからである。

海外の勤めが終わって帰ってきたが、もう、Rさんの消息を知るものは誰一人としていなかった。山谷で誰一人みとる人無く、息を引き取ったのだろう。路上で行き倒れになったのかも知れない。既に20年近くも前の話しである。

終戦の日になると、必ず、Rさんを思い出す。終戦の日、私は、Rさんの昔の本家がある越後の地にいた。米どころとして日本一の土地である。ササニシキの発祥の地である。私の疎開先だった。当時、Rさんの本家は、勿論人手に渡っていたが、白つちの土蔵を幾重にも従えた豪壮なたたずまいは、伝説の城郭のように見えたものだった。

戦争の話しを一切しないRさんが何かわかるような気がする昨今である。

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