昨日あたりの(11月5日)新聞、NHKの放映などで、森鴎外の晩年の遺品が見つかり、子供達に対する愛情表現の一面が大きく取り上げられている。
森鴎外については、今まで、意識的な善意に基づく評価が表面に出過ぎて、その裏側が伝えられないうらみがあった。傲慢、官僚的、出世主義という論者もいるようだが、本当の森鴎外は、この両面を持ち、使い分けた男であったのだろう。
ここでは、彼のかたくなな、官僚的な医学知識のために、多くの人命が失われた話しを紹介して、この男を見るときの参考にして頂きたいと思う。
この話しは、杏林予防医学研究所所長の山田豊文氏の「ビタミン・ミネラル革命」を参考にしたものである。
明治時代の日本は、農村が疲弊しており、農家でありながら、白米を食べると云うことがあまり無かった。しかし、軍隊にはいると白米が口に出来るというので、これも「兵隊さん」の特権であった。この特権にまつわる話しである。
明治時代、軍隊にかっけという病気がまんえんし、死者が相次いで、大きな問題になっていた。当時、軍隊では、一日に6合の白米を支給しており、白米を口に出来ない一般市民にとっては、この面で、兵隊さんは「うらやましかった」のである。
かっけになると気力や体力が低下して、しびれや浮腫が生じ、改善されないと心不全で死んでしまう。この解決のため、海軍では高木兼寛、陸軍では、森鴎外の2人の軍医がかっけの治療を担当したのである。
ドイツで医学を学んだ森鴎外はかっけの原因を細菌だと考え、抗菌剤の研究に没頭した。一方で、イギリスで実用的な医学を学んだ高木兼寛は、白米に不足している栄養素に原因があると考え、それを補うために兵士達に麦飯を食べさせたのである。
森鴎外は、麦飯などでかっけが直るかとせせら笑い、細菌の研究に精を出し続けたのである。日露戦争が勃発し、陸軍では、なんと27,000人が、戦場にあらず、かっけで死亡したのである。これに対し、麦飯を食べさせた海軍では、かっけの死亡はわずか3人であった。 この現実を前に、軍の最高命令により軍隊では(原因が分からないながらも)麦飯を配給するように義務付けられたのである。
それでも、官僚主義に凝り固まった森鴎外は、自分には過ちはないと信じ続けたようである。
鴎外と、高木がこの世を去り、昭和の初めになって、かっけは玄米の糠(ぬか)に含まれるビタミンB1の不足で起きることが明らかになったのである。
ここに出る、高木兼寛は、東京慈恵医大前身の創立者で、明治21年、日本初の医学博士号を取得している。
森鴎外の話が出ると、筆者は、必ず、このかっけの話しを思い出す。今は、わざわざ、麦飯を食べなくても、手軽なビタミン剤が幾らでも手にはいるので、かっけは容易に直すことが出来る。
しかし、森鴎外がいま、この世にいたら、彼は、かっけを治すのに、ビタミン剤などという、栄養剤を使っただろうか? 西洋医学に凝り固まった彼の頭には、栄養素によって人の身体を平常に戻すなどと云うことは考えられないことに違いない。
西洋医学を学んだ医者達は(森鴎外に限らず)、病気は「薬でなければ直らない」という固定観念があるからである。かっけで死んだ(或いは殺された)27,000人の兵士達のみならず、今もって、何十万という人達が、あやまった医者の固定観念で、殺されていくのである。
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