人の器とは、言い換えれば、その人のもつ度量、大きさをいいますが、これでもよく分からない人がいるかもしれません。
私は、今年の1月と2月に、上記の主題についての記事を続きものとして書き始めました。
その1はこちら、
その2はこちらです。
この記事は2月に2回目を書いて以来中断しています。
中断理由は、この記事の主人公であるべきマッサージ器を「福島原発被害からよみがえらせた」ご本人が病で入院してしまったからなのです。入院直前に当人と電話で話しましたが、ひと月くらいのことを言っていましたし、非常に元気な口調だったので退院してきたら、本人からよく話を聞いて続きを書こうと思っていました。
本人とは入院前に「90歳まで頑張ろう」と言い合って電話を切りました。
その後、思いがけなくも見舞いにもいけない状態がつづいており、ただ、緊急事態ではないとの連絡を身内の方から頂いておりましたので、それで気を休めておりました。
退院しそうになると体調を崩して治療に逆戻りを繰り返し、半年が経ってしまいました。一昨日、看護されているご子息からメールがあり「緊急な状態ではないですが退院する状態ではありません」との連絡を頂きました。
まだ、当分、本人とは会えない状態のようです。本人から「原発被害からよみがえらせた」話を聞いて、続きを書くつもりでしたが、まだ当分不可能のようです。
この記事を書いてみようと決めた理由は、原発被害を乗り越えた実態の一つを、中小企業の経営者の立場から書いてみようと思ったことが先ず第一。その次に、その中小企業の経営者を通して、“人の器”について記しておきたいと思ったことがあります。
冒頭に書いたように、人の器とは、その人の持つ度量、大きさをいいます。
これに対して、ものごとにくよくよして、後に引く性格の持ち主、いわゆる器の小さい人を、まさに字の通り「小人」と言います。この記事を書いている本人はどちらかといえば、その範疇に属する俗物です。本人が一番自覚しています。
それに対して、私が主人公にしようとした原発被害を乗り越えた経営者はいわゆる「大人(たいじん)」なのです。辞書には、度量のある人、大物の風格のある人、器の大きな人などとあります。本人は躰も大きいがそればかりではありません。
しかし、本人にそんなことを言えば「何をバカな!」と一笑するでしょう。
ちなみに、器の大きい人、大人(たいじん)とは、どういうひとか想像してみて下さい。
ひとそれぞれに、思い描く像があると思います。
私は、単純にいうと、「その人が、そこにいるだけで、そのグループなり、集団がなんとなく落ち着きを持ち、属する人々がなんとなく安定感を覚える。そして周りに人が集まって来る吸引力を持つ」、そのような人をいうように思います。別に、表立って、人の先頭に立とうとしたり、リーダーシップを発揮しようと力まなくてもいいのです。その人の存在、そのものが他の人々の心に安定感をもたらすのです。
これは本人が自覚してやろうとしたり、トレーニングによってもたらされるものではありません。本当に持って生まれた資質かもしれません。それなりの期間生きて来た人ならば、そういう感覚を与えてくれる人に出会った経験があるに違いありません。いかがですか?
私にとって、この記事の主人公がそういう経験をさせてくれた人なのです。
私とは、小学校時代からの同窓です。七十年を超える付き合いになります。
小学校時代はクラスが違いましたので、直接の会話は少なかったですが、クラスは違っても、彼の存在は、その学級のほとんどの生徒が知っていました。
そうして、戦争を経て、戦後、クラス会で再会しました。
大人(たいじん)ぶりはますます身に着いたものになっていました。
(この項つづく)
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